序論
現代社会は無機物を無尽蔵に作り出し地球と人間自身をも無機化してゆく社会モデルの上で成立している。これを無機経済社会と呼ぶ。無機経済社会では、誰よりも早い速度で大量生産、大量消費を実践し、抵抗コストで商品やサービスを独占販売したものが、成功を収める社会である。無機経済社会における生きがいは、富であり、衣食住のすべてを賄うものは月給である。無機経済社会は、古くは1800年代に英国からはじまった資本主義経済が大航海時代、植民地支配を形成し、産業革命以後加速した市場主義が世界大戦以降加速度的にアメリカで確立したものであるといえる。無機経済社会の実行プロセスは、限りない都市化と低賃金の国の人間を利用するための移動手段と、低コストの物流手段を必要とする。そのために、人間は果てしない国土開発と膨大な移動エネルギー消費、複雑な物流システムを保有しなければならない。
今日、1900年には15億人だった人口は百年後の現在65億人であり、西暦に2050年には100億人に達するらしい。一方、地球上の動植物の希少種はこれから50年以内に絶滅すると言われている。無機経済社会は、市場主義の名のもとに、国家はGNPの成長が国策で地球上のあらゆる資源と人間を働かせて富=マネー至上主義を台頭し、富める者が成功者あるという社会モデルである。富は現代人にとって最高の生きがいになっており、富さえあれば快適な生活と果てしない娯楽を享受できる。しかし、このことが国家目標を利益至上主義に傾かせ、ヒューマニズムや人間社会のモラルハザード崩壊を生み、格差の底辺のすそ野を拡大し、子供たちさえ虐待されて生きることも許されないような社会を生んでいる。
人間は今、その生きる目標と意義の喪失に気づくべきではないだろうか。ここで、無機経済社会に対して、有機経済社会について考えてみたい。有機経済社会は、衣食住に必要な物を生み出すことを目的とし、美しい森や河川、海がある国土が形成し、人間同士のつながりを重視する社会である。有機経済社会は、有史以来自然発生的に営んできた生きるための最低限の人間生活をおくることを基本とするが、現代においては自給自足の生活を単独で行うのではなく、効率的な生産活動と受給バランスの統治をはかるしくみを有するものであると考える。そのために、必要なことは軍隊や学校の再利用を提案したい。
ここで再利用という意味であるが、戦う兵隊ではなく生産する兵隊を社会的に徴用することである。
また学校教育においても、学力主義や受験主義は競争社会の産物であり、そもそもマネー=金が人間を幸福にする現実ではない古来の生きる術を教える時間を創出することは重要である。
それは社会に生きる人間は男も女も全員が参加するもので、農業、林業、建設、土木業務を行い、貨幣不要で、その労働対価は形あるものとして還元されるしくみを作れば、新しい生きがいも生成されるのではないかと思う。この徴兵制の有機経済社会活動を実行は、人間に国土や風土、民族を慈しむ生きがいを創生するものであると確信する。今日の社会では、GDPと有機経済活動指数を目標にし、例えば人生の一部1割でも2割でもを有機経済活動に充ててみてはどうであろうか。そうすれば、衣食住を営む何千倍の不必要なマネーを貯め込まなければならない無機経済社会に依存することなく、衣食住を保証され、必要最小限の無機物の生産に留めることができ、その結果地球温暖化や森林破壊、人間の尊厳の崩壊を根治できるものになるのではないかと考える。かつて、日本における江戸は、類いまれな有機経済社会であったといえ、特にリサイクルシステムは完成されたものだった。今人間は何のために生きるべきか?は、有機と無機の活動指標の制定にあり、有機経済は過去に逆戻りすることではなく、新たな社会モデルとして組み入れ、バランスを創生させることある。
江戸文明は有機経済だった
有機経済社会モデルの冠たるものは失われた江戸文明である。
江戸文明は明治維新と共に滅びた。
それは、ペリーの来航によるものであったが、アステカ文明がスペインの侵略によって滅びたのと何ら変わりなく、日本人は江戸文明の末裔ではあるが文明の継承者ではない。
江戸時代は、鎖国政策により外国との取引はごくわずかであり、ほとんどのものが国内で生産されしようされ廃棄されていた。そこには、理想的な循環型社会が形成されていた。
江戸時代(1603-1867年)の日本の総人口は3000万人ほどで、2世紀半ものあいだ、ほぼ人口が安定してた。
日本の首都であった江戸の人口は、約100-125万人で、世界最大の都市であった。
江戸時代の約250年間の鎖国時代、海外からは何も輸入せず、エネルギーもすべて国内だけでまかなっていた。