有機経済モデル

有機経済社会モデルの冠たるものは失われた江戸文明である。

江戸時代は、鎖国政策により外国との取引はごくわずかであり、ほとんどのものが国内で生産されしようされ廃棄されていました。そしてそこには、理想的な循環型社会が形成されていました。

江戸時代(1603-1867年)の日本の総人口は3,000万人ぐらいで、2世紀半ものあいだ、ほぼ人口が安定していました。日本の首都であった江戸の人口は、約100-125万人で、世界最大の都市でした。

江戸時代の約250年間の鎖国時代、海外からは何も輸入せず、エネルギーもすべて国内だけでまかなっていたのです。

江戸時代の日本の社会は、太陽エネルギーだけで回っていました。植物は、水と酸素を使って、太陽エネルギーを枝や木、茎や実に変換します。「この1年に伸びた枝や植物や実をエネルギー源として使う」ということは、「この1年の太陽エネルギーを(植物という形で)使う」ということに他なりません。

江戸時代には、前年の太陽エネルギーだけを考えれば約8割、過去3年間で考えれば、生活必需品の95%は、太陽エネルギーでまかなっていました。過去2-3年の太陽エネルギーだけでほぼすべてをまかなえた江戸文化は、持続可能な文化だったのです。

太陽エネルギーを利用して物資を作り、さらにそれをリサイクルさせるための具体的な方法は、徹底した植物の利用でした。衣食住に必要な製品の大部分が植物でできていました。太陽エネルギーでまかなえなかったのは、石、金属、陶磁器などの鉱物でできたものくらいです。

 

江戸時代の日本は、単なる「農業国」ではなく、あらゆる面で植物と共存し、植物に依存し、しかも植物を利用してすべてを生み出し、すべてを循環させる「植物国家」だった

 

稲作農家では、収穫した藁の20%ぐらいで日用品を作り、50%を堆肥にし、30%を燃料その他に使いました。燃やしたあとの藁灰も、カリ肥料となりました。つまり、100%利用し、すべてをリサイクルして大地に戻していたのです。

日用品として「衣」では、編笠や雨具である蓑(みの)、藁草履(わらぞうり)など。農家では農閑期に、自家用に作るとともに、売って現金収入源としました。

「食」では、藁で米俵のほか、釜敷き、鍋つかみなどの台所用品を作ったり、納豆を作るときに利用しました。また、牛や馬に食べさせたり、敷き藁として使い、排泄物から堆肥を作りました。

「住」でも、草屋根、畳、むしろ、土壁の材料など、あちこちに藁が使われていました。

現在、日本の山林に生えている木を人口で割って見ると、一人当たり50トンになります。木の成長率は平均すれば年約5%ですから、それで計算すると毎年2.5トンの配当がつくことになります。この2.5トンの薪を燃やすと、約1000万キロカロリーです。

現在の日本人は、年に4000万キロカロリーを使っていますから、薪をエネルギーに使えばその4分の1をまかなえることになります。江戸時代の人口は現在の約4分の1だったので、現在の一人あたりのエネルギー消費量で計算しても、総エネルギーを薪でまかなえます。

ほとんどの動力源が人力だった江戸の人々は、現代人の何百分の一しかエネルギーを使っていなかったでしょう。また、江戸時代の森林面積は、現代よりも広かったので、木の成長量よりもずっと少ない使用量でエネルギーをまかなっていたと考えられます。

廃棄物のほとんどは、江戸の町で原料として扱われていました。

例えば糞は、肥料や燃料として、また藁草履や草鞋などの日用品として利用されました。

日用品も使い終われば燃料となり、燃え残った灰は肥料になりました。

環境省「循環型社会白書」

石川 英輔『大江戸リサイクル事情』から学び取る現代人の生き方

 

廃棄物に係る時代的俯瞰